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| 平成19年02月11日(日) 〜第二章 汝自らを知れ〜 皆さん、こんどは私達の六十年以上もの研究で実証されていることを、取り上げてみることにしましょう。この全宇宙内の一切の機能、一切のものは神に発するのでありまして、それを証明する科学的な証拠も現在では出ております。この神性なるものを何と呼ぼうとその人の勝手ではあるが、中でも最大のものは神という言葉でしょう。 それは何故でしょうか。この神という言葉は、一秒間に一兆八千億回もの割合で振動します。それは皆さんにお目にかけることもできますし、又そういう風に発声の出来る人々もわたしたちは知っています。しかし一番素晴らしいのは、この振動を実現したその瞬間に、その人自身がその振動そのものになるということです。 さて、この神性なるものはおよそ形態を具えているものすべての中に、既に確乎として実在しているのであります。ただあなたの形態〔肉体〕とか誰それさんの形態〔肉体〕とかいうだけではなくて、ありとあらゆる形あるものの中に在るのであります。この神性なるものがなければ、われわれは写真一枚だって撮れっこないのです。 この神性なるものがなければ、今日この室内で写真を撮ろうとする対象物、ひとつだって存在し得ません。それについては絶対確実な証拠もチャンとあります。であるのに、何故皆さんは「私は神性ではない」などと言うのですか。「ではない」という言葉など取り去ってしまうのです。その上でその結果を前と比べてごらんなさい。「わたしは神性である」。その通り。 それが自分自身についての真理なのです。非真理とは即ち「私は神性ではない」ということ。真理は「私は神性である」ということ。この言い方を完結するのです。即ち、それを更に延長して、こう言うのです。「私は神である」と。わたしたちは今や確実に、身を以て知っているからこそ、そう言うのです。成る程、皆さんは今までにもそれを聞いたことがあるでしょう。 しかし、私以外の他の人がそんなことをいうと、皆さんはそれに少し「塩気を加えて」受け取るか、又は、「ナーニ、あの男はわかっちゃいないんだ」と軽くいなした筈です。しかし、わたしたちはそれが真理であることを、写真と強化増幅(high magnification)(1)実験を通じて身を以て知っています。 従ってわたしたちは、どんな人でも連れてきて、強化増幅仕掛けをしたこのカメラの前に座って貰えるのです。するとその都度、その人の神性なるものがはっきりと現れてきます。わたしたちの肉体は初めは単一の細胞から始まり、やがて増殖して今の肉体になりました。この光は決して消えないことを、強化増幅によってお目にかけることができます。 この光は、肉体が造られて行くにつれて、一つの細胞から他の細胞へと伝えられて行き、あなた方がそれについてどう思おうと、又何と言おうと、全くその影響を受けることなく、一定の波動周波を持ち、且つその周波以外に出ることは決してありません。現在その証拠もチャンと出ています。早い話が、わたしたちの肉体で最も素晴らしいものの一つである目も変わります。 目の桿状体(rods)、円錐体(cones)、それに網膜も変わって神性を受け容れ、自分の神性を悟った瞬間にわれわれの目はこの悟りと、今申した特定の周波に、整合するようになります。視力を全然損なったことのない人々、そういう人々なら、自分の神性を認容すると殆どその瞬間にそれが分かるようになることは皆さんにお目にかけることも出来ます。 さて、神性なるものとはすべてのもの、すべての形あるものに宿る神のことです。キリストとはこの内なる神性を実現する力のことです。してみれば、すべての人々の姿形やすべての形態の中にキリストが窺(うかが)える道理です。この事が実は、イエスの最初の宣教の一つだったのです。私達は研究の途上でこの事を発見しました。『わたしはすべての人、すべての形あるものにキリストを観る。 初めて地上に人の子が生まれた時がキリストの生まれた時である』のです。それが征服者・キリストです。征服する者、一切の主です(マスター)。主でない者は今日では一人もいないのです。主という言葉を口にすると、すぐ人々は自分を措(お)いて外に主を探し始めるものですが、自分の外に主を求めた瞬間、われわれは、吾が内にこそ主のいますことを忘れ去ってしまっているのです。 人類は今日まで神を外に求めること、或は神を外に視ようとすることによって、最大の誤ちを犯して来ています。何故か。それは、まさに吾が内にあるものを外に探し求めるからです。自分自らが神であると明言すれば、その都度、あなたはまさしく神になっているのです。 もしあなた方が例の強化増幅装置の前に立って、『神』という言葉を発するならば、あなたがたの肉体は、この言葉を発する前の波長に又とは戻らぬことを、お目にかけることができます。もう一つ、神という言葉が心を籠めて用いられている本があれば、その言葉の故に、その本には一層の輝きが出ることもお目にかけられます。 私達は神という言葉を、一秒間に一兆八千六百億回振動する様に発生しうる人物を三人知っていますが、その方々にこの地球上でグリーニッジ(2)から最も遠い経度百八十度の地点に行って頂き、この装置を調整しておいて或る決まった時間に彼らの発生した波動を記録するようにしておきました。この波動が入って来た途端に、指針は一兆八千六百億の周波数を示したことでした。 今度はロンドン博物館にある最古の聖書をこの装置にかけておいてから、ゆっくりとバイブルを外して、神という言葉の使われていない或る本を入れ替えたところが、指針は元に戻ってしまいました。その次には、神という言葉が三回だけ使われている本を取り上げてやってみたら、すぐにそれなりの反応がありました。只一回の言葉でも波動の反応が出るのです。 無生物でさえそうであってみれば、われわれ人間が神という言葉を積極的に使い、また受け容れるならば、われわれの肉体は一体どんな反応を示すことでしょうか。この三人の方々に、神なる言葉を一秒間一兆八千六百億回もの振動数で発声して頂くと、フイルムに現れるそのグラフは三十呎にわたりますが、同じ方々に『エホバ』と発生して頂いた時に同じフイルムでのグラフは、僅か五吋にとどまった事でした。 これは一体何故でしょうか。あなた方が、よく理解し、信じ且つ知りながら神という言葉を発声するならば、およそ現在までに知られている最大の波動が出、この波動の反響によって質料(サブスタンス)が集合し、そこへ何かの想念を発したその瞬間、この質料はあなた方のものとなるのであります。事実、正しい順序どおりにやれば、離そうたってそれはあなた方から離れるものではありません。 それは、皆んなのものです。そのもたらす善果は皆んなが利用できるのです。この波動を出せば、それは今すぐ此処に何かの形で現実化するのであります。今取り組んでいる或る極めて明確な原理があります。それは即ち万有神性の原理です。過去の事件を撮影する私達のカメラがそれを証明しました。あらゆる草の葉・樹木・花・種子等は本来神性であって、もしこの神性がなければ種子も樹木も伸びることはありません。 この種子の胚芽の中に、後で生え出る形のものと全く同じ形が秘められているのを、はっきりと私達は写真で、いつでもお目にかけられます。それと同様にわれわれの中にも万能の胚種が当然あるのである以上何故われわれは解らないなどと言い散らすのでしょうか。「解る」という方がずっと善いにきまっているではありませんか。 そうです、本当は解っているのです。この理解・悟得は、実にあなた方自身の中にすでにあるのです。あなた方はすべての師なのです。外部の見せかけを放ち去り、吾自らが師なりと認容することによって、あなた方は内なるもの即ち、完全なる神性を吾がものとするのです。 大師方についてものを書いたりする人々、何処に行けば大師方に会えるかとか、大師方に会うにはどうしたらよいかなどと尋ねる人々が多いものですが、大使に会ってみたいなどと思って自分自らの実相の世界より一歩踏み出した瞬間、その人は実は吾が内なる大使を見失ってしまっているのです。 この事実を認め、これに気づいた時あなた方は大使と共にあり、又大師がたすべてと共にあるのであります。さて誰かに『私は神ではない』(I am not God)と言って貰うことにしましょう。そこで一寸待って貰って、その『ではない』(not)を取り除いて貰います。『ではない』は否定詞であって、波動としては何らの周波数も持たないのです。 只その言葉を口にしたとき、始めてそれにエネルギーが与えられて生きるのであって、言葉として発声することを拒否した途端に、その言葉はエネルギーを失ってしまうものです。この事実を示すことのできるカメラが現在出来ています。実際にそのカメラの前に誰かに坐って貰って、何か或ることを述べて貰うのですが、実際にはその内容を一言も発しないで、只心の中で考えて貰うのです。 するとそれがフイルムにグラフとして現れ、そのグラフから私達はその人の考えていることが正確に当てられます。こんどは、試しに否定詞を使って何か或る態度をきめて貰います。すると、その否定詞のところに来ると、フイルムの上には何のグラフも現れません。結局、記録として現れてこないのです。このカメラは又、人体の大きな周波も示すようになっています。 もし周波が出なければ写りもしないわけで、従ってもし催眠術がかけられるならば、かかった人からは周波が出ないから、この特集カメラには撮らぬ筈です。私達はインドの術者の写真を四、五百枚以上も撮りましたが、催眠術を使っている場合はカメラには全然撮っていません。この数百枚にのぼる写真の中でも極めて目立つ事例が二、三あります。 例えば、私達がインドにいた時、或る日、出先から奇寓先に帰ったところ、丁度門の中に或る男が立っていました。その男が地面の中にオレンジの種子を植えて、自分の小さいケープをその上にかけると、種子がスクスクと伸び、ケープを取りのけるとオレンジの木が見る見る伸び上がり、四十分後には一見、枝も蕾も花も葉もあるちゃんとした一本の樹に生長していて、そのうち熟したオレンジの果実までが成っているではありませんか。 すかさず私達はそれを写真にとったことでした。さて、われわれのグループはカメラを十二台所持していました。実は私達はその時、すっかりペテンにかかっていたのですが、そうとは知らずに前へ寄ってオレンジの実をもぎ取ろうとしたところが、何とオレンジの樹自体がなくなっているではありませんか。 そのうち中間の者が、この時写したフイルムの中から二巻だけ現像することにして、それが出来上がって届くまで、わたしはこの若い行者と話のやりとりを引き伸ばしていました。さて届いたフイルムを一巻彼の前で拡げて見せてから私はこう言いました、『どうだね、君は僕等をだましてくれたが、この箱〔カメラ〕はだませなかったね』。 彼もこれには戸惑って、『皆さん、明日又来て下さい。そうすれば、もう一度やってお目にかけます』と言うので、翌日十一時に又会うことにきまりました。さてその翌日、約束の時間に皆んな顔が揃ったが、前以てわれわれはお互いにカメラを交換しておいてありました。例の若い行者は、今度はわれわれが今までに会ったことのない或る男を連れてきています。 この新顔の男はツカツカと前へ出ると、やおら種子を地面におろしました。その間、われわれはずっとこの情景を写真にうつしています。やがて前回と全く同じようにして木が伸び出てきました。私達はみな確かにそれをこの目で見ています。しかし、前の日にひどくだまされたので、今度はオレンジをもぎ取ろうなどとはしません。ところが、おしまいに隊長が一同に、『さてっと、このままでは仕様がない。 これが気の迷いかどうか、ひとつ実地に試してみようじゃないか』と言うと、前へ出て行って、オレンジを一つもぎ取って喰べたものだから、われもわれもと皆んながその通りやったことでした。その樹は今でもそこに生えてオレンジを実(みの)らしています。ところで事の真相はこうです。例の若い行者は、この年とった師匠の弟子なのでした。私達がこの師匠に前日のいきさつを話すと、師匠は怒って彼を破門してしまいました。 師匠が私達に話してくれたところでは、師匠たちは自分の弟子たちに十二種もある催眠術を全部教えるそうですが、教える理由は、現象は本来実在ではなく、従って現象には完全なるものはない、しかし一切の現象を放下し実相を悟れば、その時こそわれわれの為すことすることがことごとく成就するということを、実証するためであるというのです。 結局それは、暗示の術、もしくは暗示の法則に当てはまるわけで、そのことを私達はインドで学んだわけです。その一例をもう一度挙げると、一人の男が一本の綱を片手にもって出て来ます。物見高い連中が周囲に寄ってくると、彼はその綱を空中高く投げつけておき、人垣の中から一人の少年を呼び出して綱に上らせます。 少年はてっぺんまで上がるとそこで姿を消してしまいます。これで準備は終わったのです。次にその男は彼の数日分の生活の糧となる金を観客から集めるわけです。私達はこの式の見せ物を五百例も写真にとりましたが、結局フイルムの上には見物人の前に立っている男の他には何も撮っていないのです。これが暗示力というものです。 この暗示力が強力に働いているために、人はそこに呆然と突っ立ったまま信じ込んでしまうのです。先程お話しした老師匠は今では私達と一緒にインド中を協力して働いてくれています。現在私達は玉蜀黍(とうもろこし)の種子を一粒地面に植えてから土壌を機械で刺戟すると七分後にはもう完熟して二本の穂まで出せるように成っています。 ところが老師匠の場合は、しゃがんで一粒の種子を地面に植えたかと思うと、起ち上がるまでにはもうそれが伸び上がっているのです。彼の場合には何ら機械的な仕掛は使いません。要するに彼は『知っている』のです。吾々にもそれができることを最もよく示してくれている実例が他にもあるのです。かくの如きを可能ならしめる英智は、本来皆んなのものなのです。 誰かにそういうことができるということは、皆んなにも同じ特権があるということなのです。特に選ばれた人といってはいないのです。各人が自分自身の中にその能力をもっているのです。複雑なものなんて実際はないのです。事は極めて単純であって、特別の学習も必要としません。 ただ、本来はそういうことが誰にもできるというこの真理を受け容れれば、それがどんなに有利であるかということを知るか、気付かせるかして、更にそれが実相の世界において既に実現していることに感謝するところまで導いてあげるだけです。この力はすべての事物、私達の日常生活、私達の使うお金に関しても存在して働いております。何人も貧乏する必要はないのです。事実、欠乏というものは本来ないのです。 只わたしたちの現し方にしくじりがあるだけであって、それをわたしたちは欠乏と言っているのです。では進一歩して、この『しくじり』も放下しましょう。しくじりなんて本来ないのですから。多くの医学者たちは、将来の人間は今よりも百年は長生きすると言っておりますが、年齢なんて実は単なる意識の状態であって、老齢という意識を捨ててしまえば、何時までも生きて行けるのです。 わたしたちの方で、ああ一年たってしまったなあ、と言わないかぎり、一年位わたしたちの想念構造の中では、別にどうということもないのです。ところが、一年たってしまったなあと言った途端に、一年分だけ年寄りになってしまうのであって、そのような事をせずに、その一年をより大いなる完成の年、より大いなる完成と偉業の年と考えるようにすれば、全くその通りになるものです。 すべての人の姿形、すべての形あるものに神性を見ることこそわれわれの為しうる最も偉大なる行為であります。すべての人の中にキリスト、或は神の子を見ることこそ吾人の最大の特権であり、それはそのまま内なる神を知る無限の力を意味するのであります。さて、話をもとへ戻すことにして、以上申したことは今でもそれを証明することが出来ます。 こういう話を皆さんが聞いて只「そんなものかなァ」と思うだけで終わって貰いたくはありません。皆さんが、老齢とか、ままならぬとか、その他一切の否定的な考え方を棄て、自分の生活においてそのような消極的な考え方をしたり、消極的な言葉を使ったりすることを拒否してしまえば、成る程と納得の行くことが出てくるのであります。 われわれは、三千年程前に使用されていた言語には、何ひとつ否定的な言葉がなかったことを、歴史的に知っています。その言葉は更に又、過去二十万年以上にわたって遡れるのであります。 質 疑 応 答 問 『神』という言葉は無声で発音しても、有声の時と同じ力がありますか。 答 全く同じです。事実、多くの人々にとっては、心の中で神を考えた方が、それを口にする時よりも強力です。 問 真我顕現のために、この内在の大いなる力を発動するには、どうすればいいでしょうか。 答 その力が自分のものであることを、只知りさえすればよいのです。あなた自身が至(いと)高き力なのです。あなた自身が至高き英智であって、そのことを認容した瞬間にあなたはエネルギーを解放し、いかなる制約にも繋縛されないことを実証するのです。 問 一旦、地球上に大破壊が来た後でなければ、世界の平和は実現しないものでしょうか。 答 破壊はわれわれ自身が、われとわが身にもち来らすのです。それはわれわれの発する想念が然らしめるのです。わたしたち皆んなが『破壊』という言葉を使用するのを拒否した場合を考えてごらんなさい、一体そこには『破壊』らしきものがあり得るでしょうか。 問 偉大なる大師方の持っておられる知識を世界中にすぐに広める上で、妨げになっているのは一体、何でしょうか。 答 それはお互いの態度です。その他に邪魔しているものはありません。お互いが本質的には大師方と同じであり、又過去よりこの方、常に同じであったことを認容し知った瞬間には、もうそれを知らなかった先の状態に戻りようがないのです。故にお互い自身の他には、何人も邪魔し得るものはいないのです。 問 催眠術が人間の意志を隷従させるのであれば、それは法則を破っているのですか。 答 催眠術を人体や人間の頭脳に用いると、非常に有害であると一般的に認められています。 訳者註 (1) 恐らくは幽体・霊体等の精妙なる体より発するオーラ(霊光)を肉眼でも見るようにした装置か。尤もオーラを視る装置は、後年キルナー博士によっても発明されて常識となった。附録参照。 (2) 地球の経度の基準となっている同名の天文台のある地名。 (3) アトランティス大陸時代のことか。 |
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